鳥海修の文字塾 第2回(2013-11-24)についてのメモ書き(中編)。
10月から12月まで3ヵ月連続で行われた「大阪DTPの勉強部屋」主催による、字游工房・鳥海 修さんの文字塾。その第2回のレポート……というかメモ書きです。
鳥海さんの言葉の引用を中心に、今回はその中編をお届けします。
…………中編?
えっと、すみません、前後編の2回(前説編を併せて3回)でお届けするつもりだったのですが、都合により(仕事が遅いだけ)前中後編の3回ということにしてしまいます。大変申し訳ありませんです……。それにともなって、以前に公開した「前半」を、しれっと「前編」に改題しています。
というか、文字塾の第3回はもうとっくに終わってしまっています。ひええ。時の経つのは早いものですねぇ。しょぼん。
えー、「活字のコンセプト」というタイトルで開催された「鳥海修の文字塾 第2回」ですが、この中で取り上げられた書体は以下の4つでした。
最初の「ヒラギノ書体」については、12/7に公開した「前編」の通りです。
そして今回は、真ん中の「游明朝体」と「游ゴシック体」の部分をお届けします。
では、気を取り直しまして、どぞー。
休憩を挟んで後半に入ります。後半の最初は、「游明朝体」の話から。
●游明朝体
「皆さんは、藤沢周平って知ってますか?
僕のふるさとの近く、山形県の鶴岡市っていうところで生まれた作家で。
時代小説ばっかり書いていて、それもあんまり偉い人をモデルにしてなくて、市井の人たちをテーマに、人間味豊かなっていうかね、そんな小説が多いです」
「たとえば、「蝉しぐれ」とか「武士の一分」とか「たそがれ清兵衛」とか、ああいった映画でも有名になりました。下級武士なんですよ、出てくるのが。ま、貧乏人ですね」
「なんでこんなことになったかって言うとですね」
●スーボの鈴木くんだよ
「僕が写研に入ったときに紹介されたのが、この言葉で(笑)。これがスーボって書体なんですけど」
「鈴木勉さんです。1998年に亡くなりました。字游工房の先代の社長。
自分を高倉健だと思ってた……勘違いな(笑)。
すごい寡黙で、すごい優しくて、ホントにいい人で」
「鈴木さんちに初めて行ったときにね。
横浜なんですけど……横浜って言うけど、実は川崎なんですよ。ただね、住所が横浜なんですよ(笑)。「鈴木さん、川崎から大変ですよね」って言うと、「川崎じゃない、俺は横浜だ」って訂正されるんですけど」
「鈴木さんちに行ったらね、いい天気だったんですよ。そしたらね、「網走番外地」をかけるんですよ……。おかしいでしょ(笑)。ホントに高倉健が好きで。
あと、模造刀を見せるんですね。模造刀を、こう、抜いてね。
だんだん、本物が欲しくなるみたいで、でも、家族に言えないんですよね。だから、会社で買って(笑)。それも、模造刀ですけどね。会社に日曜日に行って、こんなことをやってたっていう……(笑)。
そういう人が作った書体が、これです(笑)」
再びスクリーンに「スーボの鈴木くんだよ」が表示されました(笑)。
「これは、23歳くらいに作った書体で、この写真は亡くなる数年前ですから、46歳くらいだと思うんですけど。
えー…………こんな人でした」
「2000年過ぎた頃でしたけど、ヒラギノが一段落するんですけど、そのちょっと前から、ヒラギノは大日本スクリーン製造が権利を持っているので、権利というのはウチにはないわけですね。
字游工房を作るにあたっては、自分たちが作った書体を自分たちで売りたいね、というのが目標としてあったので。
ヒラギノはすごく運良く入ってきた仕事なんだけど、夢としては、そういうことをやりたかったので、「そろそろ自分たちの書体を作りたいね」というようなことを考えてた矢先のことですけど」
●平野甲賀氏との出会い
「これは、平野 甲賀(ひらの・こうが)さんの装幀なんですけど。こんな字を手書きにする人です。
武蔵野美術大学で、平野甲賀さんが全部寄贈したので、今、展覧会プラス、イベントもいろいろやっているみたいです」
これは、武蔵野美術大学の美術館で2013年10月21日から12月21日の2ヵ月にわたって開催された「平野甲賀の仕事 1964-2013 展」のこと。この文字塾第2回のときは、ちょうど中日あたりでした。
→ 参考「平野甲賀の仕事 1964−2013 展 | 武蔵野美術大学 美術館」
「平野甲賀さんは、晶文社(しょうぶんしゃ)のデザイナーでもあったんですよ。雇われではなくて、フリーで晶文社のデザインを手伝ってたって言い方が正しいんでしょうか。
サイのマークの晶文社。そこの編集長も名物編集長で、津野 海太郎(つの・かいたろう)さんって人ですけど。
その津野さんと平野さんが、突然、字游工房を訪ねてきた。それが最初の出会いなんですけど」
晶文社のサイトはこちら。→ 「晶文社 | 文芸書・人文書を中心とした書籍と各種学校案内書を発行する出版社。」
「訪ねてきた理由がですね。
これは、「秀英初号」という、大日本印刷の秀英体の初号という大きさの文字です。写研で文字盤化して、「SHM」って名前をつけて販売してたんですけど。で、こっちは、「築地初号」という書体なんですが」
写真は、「秀英初号」です。「築地初号」の写真は撮っていません。すみません……。
「「秀英初号と築地初号のふたつがあるおかげで、俺は装幀ができた」と平野さんが言っていて、「この書体を作った連中が、東京の高田馬場にいるらしいので、訪ねてきた」って、いきなり訪ねてきたんです。
字游工房では作ってなくて、鈴木勉が写研のときに秀英初号の仮名を写植用に作ったりとか、そういうことをやっていたので、それを聞きつけて、訪ねてきてくれた」
「津野海太郎さんは丸坊主で、ウチの鈴木も丸坊主みたいな髪でしょ。平野さんも短いんですよ。それで、けっこう横に長いんですよ、体型が(笑)。それがこう、三人並ぶわけですよね(笑)」
「そのとき初めて会ってね、
平野さんがそのときに「お前らと一回、展覧会やりたいよねぇ」とか言ってたんですよ」
●「藤沢周平を組む」という旗頭
「それからしばらく、ずっと会うことはなくて。
その間にヒラギノが終わったというか、ある区切りがついたときに、平野さんから電話があって、食事しようって言われたんです。最初に会ったときから、数年経ってるんですけどね。「神楽坂においでよ」って言われて。
それは鈴木さんが誘われたんだけど、「お前も行くか?」って言われて「うん」って言ったら、ヤな顔されました(笑)。鈴木さん、そのとき、真っ白な上下のスーツ着ててね。俺はジーパン履いてたんだけど(笑)。
料理屋さんっていうか、すごく品のいいところに連れていかれて、食事をしてたんだけど」
そのときに、こういう会話がされたそうです。
「平野さん「お前、どんな小説読むんだよ」
鈴木さん「池波正太郎さんが好きです。吉村昭さんも好きです」
平野さん「藤沢周平は読むのか?」
鈴木さん「あぁ、読みます」」
当時、鳥海さんは藤沢周平を知らなかったそうです。ちょっと意外かも。いつ読み始めるかという話は、ちょっと後で出てきます。
「平野さん「藤沢周平はいいよなぁ……」
平野さん「なんかさぁ、ああいう小説をさ、組めるような書体がないんだよね」」
「平野さん「ヒラギノで藤沢周平、組める?」
鈴木さん「いや、組めません」
平野さん「組めないよなぁ……」」
平野さん「そういう、普通の小説を普通に組めるような書体がないんだよ」
「みんな困ってる。デザイナーも困ってるし、編集者も困ってるし、出版社も困ってる」
「お前ら、作れよ」」
「そのときに、よし、やろう!って決めたんです」
「「藤沢周平を組む」って、キーワードっていうか旗頭(はたがしら)。そういう「旗」を作って、行っちゃおう! みたいな感じで。
その場で、「漢字は俺がやるから、お前が仮名をやれ」って鈴木さんに言われて、それで始まるんです」
「一方で、ヒラギノの仕事も流れていたので。
鈴木さんは、早めに家に帰って、家でその漢字を作って、っていう仕事の仕方をしてたんですけど」
●「ありきたりの明朝」のデザイン・コンセプト
「そのときは、游明朝体っていう名前ではなかったんですけど。
当時、料理番組があって「究極のナントカ」ってやってて。「究極」流行りだったんですよね。
その「究極」に対して、「俺たち普通でいいよね」っていうことで。「ありきたりの明朝」って名前をつけて、「A明朝」って呼んでたんですよ。開発コード。ときどき「JK明朝」になったりもするんですけど」
「だから、これ、游明朝体のデザイン・コンセプトではなくて、あくまでも「ありきたりの明朝」のデザイン・コンセプトなんだけど」
紹介された「ありきたりの明朝」のデザイン・コンセプトは、こんな感じでした。
- DTP世代の新しい本格的な本文明朝を作りたい。
- コンセプトは「藤沢周平を組む」。
- 長文縦組みに適合すること
- ベタ組みを基本とすること
- 適正な使用サイズは7〜12ポイント程度とする。
- 原題において普遍的であること。
- 漢字は四角く明るいものとすること。
- 漢字に対して仮名は控えめであること。
- 仮名のスタイルは伝統的な形を継承しつつ、抑揚のあるしっとりとしたものであること
- アルファベットは仮名よりも強く、オーソドックスなスタイルを持つこと。
「さっき(注:ヒラギノの解説の際)、本蘭明朝がすごくグレートーンで、ヒラギノも同じようにグレートーンなんだけど少しだけ漢字を強くしたいと思ったんだけれども。
本文書体を考えるにあたって、俺は「活字に帰りたい」と思ったんですよ、このとき。写植の流れではなくて」
「「写研の文字はいい」ってみんなが言うんですよ。今でも言います。
でも、写研の本文書体っていうのは、実はあんまり使われてないんですよ。文庫とか単行本には。
まぁ、本蘭明朝が使われましたけど、でもね、活版が生きてるころは、ほとんど活版だったんです。写植の文字にすると、「写植は弱い」って出版社とか書店員が言ってたんですよ。
なので、写研の書体が本文用として適正なのかどうかっていうのは、ちょっとこれは考えなくちゃいけないな、と思っていて」
「それで、どっかに帰ろう、見直そうって思ったときに、やっぱり、活版に学んだほうがいいんじゃないかっていう風に考えました。
それで、こういうコンセプトを立てたんです」
●游明朝体のデザイン
「アルファベット、相当強いですよね。ヒラギノと比べると、アルファベットの強さは、ちょっとすごいです。でも、小さく使うと、まぁまぁこんなもんでしょって感じなんですけどね」
「このときから、本文書体に対する考え方が、だいぶはっきりしてきて。
漢字と平仮名とカタカナとアルファベットの4つの文字に、それぞれ役割分担をさせようって思ったんですね。
その役割分担をはっきりさせることで、読みやすくなるんじゃないかっていう風に考えたんです」
「漢字は、四角くあっていい。
平仮名は、さっきの上代様仮名ではないけれど、大きさの差があって、流れるような仮名でありたい。
カタカナは、かなりカッチリしたもの。「ロ」なんてのは小さいほうがいいな、とかね。
アルファベットは、欧文なんだから、日本語に溶けこむような感じではない方がいい。むしろ、違うって感じのほうがいい。
ということで、こういう風に考えました」
「これは、鈴木が作った漢字なんですけど。
ヒラギノの漢字はね、すごく主張してるんですよ。点が大きかったり。なんていうんだろうね……やっぱり、若いっていう感じがするんですけど。
游明朝体の漢字は、実は、点とかウロコとかが、ものすごいちっちゃい。
「優しい」っていう言い方が当たっているのと、もうひとつは「弱い」っていう欠点もあるんですよ」
「仮名はこんなん。
これは、大日本印刷の「秀英」をベースにしてやってます。本文用のやつ。
それは、時代小説を組むにあたっては、どういう風にしたらいいのかって考えたときに、つながってる秀英……ん? つながってる秀英? うーん……。たとえば……」
ホワイトボードに「つながってる」例を書いていきます。
「「に」とか「な」とか、こんなような……。秀英って、こうなってるんですけど。こういうものが、けっこういい感じなんですけど。ただ、古い。
それを、もっとモダンにしたいと思って、僕は、その姿を借りて、もう少し今の時代に合わせたものをっていう風に考えました」
「これ、ずっと秘密にしてたんですけど。
こないだ、大日本印刷の佐々木さんっていう人に「実はこうやってんだよ」って言ったら、「知ってまーす(声真似)」って言われて(笑)。まぁいいかなー、みたいな(笑)」
●鈴木勉の本
「1997年くらいから、鈴木が漢字を作り始めて。
ところがですね、その1年後くらいに、奥さんに呼ばれちゃってね」
「俺、そのときは会社にいなかったんだけど、鈴木さんが会社で「お腹が痛い」って言い出して、トイレに行っても治まんないからって、かかりつけの診療所に行って。
そしたら、「盲腸だね」って言われて、大きな病院を紹介されて、川崎の病院に入っちゃうんだけど。で、局部麻酔で盲腸の手術をしたんだけど。
奥さんの話だと、切って手術しようとしたら、盲腸が大きくないっていうのと、あと、出血してる、と。「どうもこれ、変だぞ」っていうことでね。局部麻酔だから、鈴木さん、全部それ聞いてるんだけど。縫い直して、改めて検査をしようっていうことになって。
結果的に、すい臓癌だったんですね」
「わかったときには、三ヵ月って言われたんですよ。鈴木さんに言うかどうかっていう相談を、俺ら、されるんですけど。黙っていよう、ということで。
鈴木さんも「みんなにはちょっと迷惑かけるけど。三ヵ月くらい休ませてね」みたいなことを言ってて」
「それから一度退院して。
ウチは高田馬場で、鈴木さんは横浜で。横浜から品川までは一回出てきたことがあって。「ちょっと品川まで来たから、天ぷら食いにおいでよ」って言われて、俺は天ぷらを食べに、鈴木さんと会って。
「最近、どう?」とか言って。「明日から、俺、会社行くから」って言って。天ぷら食べながら。そしたら、再入院になっちゃった。
結局、会社には一回も来れなかったですね」
「結局、翌1998年の5月6日に亡くなってしまうんだけど。
この人、高倉健も好きだったけど長島も好きだったので、(野球の)開幕とかね、楽しみにしてて。4月の開幕のときにビール持ってお見舞いに行って。ビールつっても、ちっちゃいやつね。それを病院でベッドのとこで呑んでたら、看護婦に見つかって(笑)。
でも、それを最後に、亡くなってしまいましたね」
「で…………なんだかなぁ、っていう感じだったんですよ。ホントに。それはね、もうひとつあって。
実は、鈴木さんが元気なころに、ウチの奥さんが白血病にかかってて、鈴木さんが俺を慰めに来たことがあるんですよ。俺と、ウチの奥さんをね。カラオケとか連れて行ってね、「俺にはなんにもできないけどさぁ」って言って。「ホントに悪いんだけど、なるようにしかなんないんだよぉ」つって帰っていって。
そしたら、自分のほうが先に死んじゃったっていう、ね。だから、ウチの奥さんなんかも、そのときはものすごいショックを受けてて。
所沢の防衛医大ってところに、ウチのやつは入院してて。高田馬場から防衛医大に行く途中、藤沢周平を読み始めるんですよ。けっこう、長いやつ以外は、ほぼ読んだって感じなんですけど」
「それで、鈴木さんが亡くなって、どうしようって感じになるんですよ。会社もどうしようって。
亡くなる前に、鈴木さんに「お前、会社どうするんだ?」って言われて、「まだヒラギノの仕事が少し残ってるから、今やめるわけにはいかないです」って言ったら、「そうかぁ。じゃあ、続ければいいよ」って言われてね。
俺は、社長になるような器ではまったくなかったんだけど、片田より俺が2歳上だっていう、浪人の強みがありましてね(笑)、強みだか弱みだかわかんないけど(笑)。それで、俺が社長になるかっていうんで、こういう風になっています」
「ヒラギノは続けてたんですけど、游明朝体の制作っていうのはバッタリ止まっていて。
鈴木さんは、1,800文字くらい下書きを遺してたんですよ、漢字の。
それで、鈴木さんの一周忌のときというか、それに合わせて、「お前ら、鈴木さんの本作ったらどうなの?」って言われて。それも、平野さんです。
実は、写研の杏橋(きょうばし)さんっていう方も、同じ提案をしてくださって。じゃあ、やるか!って」
「鈴木さんの単なる追悼本ではなくて。
鈴木さんが文字に対してどんな気持ちで臨んでいたのかっていうことを、鈴木さんがデザインした書体を絡めて、ちょっと考えてみようか、と。その気持ちを俺たちが継いでいこうよ、っていうような意味合いで作ったのが、これなんです」
「これを作るにあたって、書体はやっぱり游明朝体でいこう、と。書体見本にもなるし。
これは、1,000部作るっていう風に決めて。非売品。
第一部は、鈴木さんがこれまでやってきた書体づくりのことについて。
第二部は、鈴木さんと関係のあるいろんな人たちに寄稿してもらったものを」
「今、その第一部だけは読めます。ウチのサイトでも読めるし。
あと……なんとかっていう……電子……ボン……うーん……ナントカってとこから取れるんですよ? ……全然わかんないね(笑)。
まぁ、「鈴木勉の本」で検索してくれれば、なんか引っかかるかもしれません」
ネット上で読める「鈴木勉の本」はこちらです。
→ 『鈴木勉の本』(字游工房サイト内)
→ BCCKS / ブックス - 字游工房著『鈴木勉の本(抜粋版)』
字游工房のサイトで読めるものは、普通のHTMLになっています。気軽に読むならこちらでしょうか。
BCCKSでは、サイト内のビュアーで本を読むように読むことができます。また、EPUB版も配布されています。
Windowsやその他デバイスのことはよくわかりませんが、OS X Mavericksを搭載したMacの場合なら、iBooksでEPUB版を開けば、書体として游明朝体を選ぶこともできますね。
また、上の方のスライドで紹介されていたいくつかの書体見本(「スーボの鈴木君だよ」とか「人間五十年」とか)は、この「鈴木勉の本」に収録されているもので、リンク先でより綺麗なものを見ることができます。
「けっこう、これ、読みたい読みたいって言われていて。最近は、もうないっていうのがわかって、言ってこなくなりましたけど。かなりの間、「まだありますか?」って言われました。
これは、平野さんにタダで装幀してもらいました」
「実は、この「鈴木勉の本」では、「育てた文字」みたいに、題名に「ナントカな文字」ってつけてたんです。
さっき、宮地さんが(始まる前の挨拶のときに)紹介していた正木香子さんの「文字の食卓」の題は食べ物を絡めていて、「それは、これをヒントにしました」って言われたことがあります」
「まぁ、こんなね……なかなかキレイな本で。こうやって、「鈴木勉の本」は無事にできるんだけど」
●文藝春秋・萬玉邦夫氏との出会い
「「藤沢周平を組む」っていうことで作った文字なので、実際に藤沢周平さんの小説の一部を使わせてもらって、パンフレットかチラシみたいなのを作りたいって考えたんですよ。
藤沢周平さんはもう亡くなっていたので、奥さんに手紙を書いて「使わせてほしいんだけど」って言ったら、「藤沢周平の小説の権利は、もうみんな文春さんに委ねてあります」って言われて。
文藝春秋なんて全然行ったことないし、どこにあるかも知らない。で、やっぱり平野さんに相談したら、「俺、知ってるから」って連れて行ってくれた」
「そこでお会いしたのが、萬玉(まんぎょく)さん。その萬玉さんっていう方が編集した本なんですよ、これは。
この本が、カッコいいんですよ、これが……。まだ売ってますよ、どっかで。どっかでっていうか、本屋さんで(笑)。
カッコいいですよ、この本。ホンッットに藤沢周平っていう感じ」
「この字は、谷沢 永一(たにざわ・えいいち)さんっていう方がいるんだけど、その奥さんが書いてるんですよ、書を。それで、「装幀:谷沢美智子」としか書いてなくて。「萬玉」っていう名前は全然出てこないんです」
「萬玉さんは、平野さんが「俺が勝てない唯一の装幀家だ」って言うくらい。今は平野さんにそういうこと言うと、「俺はそんなこと言った覚えはない」って言うんですけど(笑)。
平野さんって、言葉っていうか雰囲気を伝えるのがものすごく上手くて。「萬玉は、すごいカッコいい男なんだ。フランス人を連れて銀座を歩いてたら、どんな遠くからでもわかる」って」
「俺が会いに行った萬玉さんは、やっぱり癌に冒されてて。
それで、「鈴木勉の本」を見せて、「実は、藤沢周平を組むということで作った本で、せっかくなので、藤沢周平さんの文章を使ってパンフレットを作りたいんだけども、許可してもらえないでしょうか」って言ったら、その「鈴木勉の本」をこうやって見て、「いいなぁ、これ。いつから使えるのよ」って言われて。
ただ、そのときは、「鈴木勉の本」一冊分の文字しかなかったんですよ(笑)。漢字が1,400字。なので、「まだちょっと、いつできるかはわかりません」って言ったんですけど、「じゃあ、できたら教えてね」って、許可もすぐくれたんですけど。
「どこ使いたいの?」「「蝉しぐれ」のあの部分です」「みーんなあそこ使うんだよなぁ」とか言われて(笑)。
で、使わせてもらって、作りました」
「宮城谷(昌光)さんの「三国志」は、今も書店に行くと普通に並んでます。これも、萬玉さんなんですよ。萬玉さんの最後の装幀。宮城谷さんの「三国志」はシリーズでずーっと続いてるんだけど、第一冊目とずーっと装幀は一緒です。第◯巻ってとこだけが変わって。
藤沢周平の最後の方の装幀に、こういう色使いのものがあって。(スクリーンに資料で表示された)ああいう地味なやつじゃなくて、ちょうどこういう色使いのものがあって、「あ、これ、萬玉さんじゃないの?」って、俺、直感的に思ったんです、書店で。
それで、後書き見たら宮城谷さんが「萬玉さんにお世話になって」って書いてて、やっぱりそうかぁって」
蛇足ですが、萬玉さんが装幀されたとしてスクリーンに表示された「三国志」は、「三国志」のでかい方ですね。文庫版では、題字のレイアウトなどは踏襲されていますが、背景の絵は変わっていて、鳥海さんがピンときたという色使いもちょっと変更されています(これも萬玉さんの指定なのかもしれないけど)。いずれも「萬玉」の名は確認できず、挿画家の方の名前のみ提示されています。
萬玉さんの話が出てくるのは、でかい方の最終巻である十二巻の後書き。もちろん、偉大な装幀家としても紹介されていますが、なにより、宮城谷さんが書けずにいたときに重要なアドバイスをいただいた方として紹介されています。
●大事な書体
「ところがねぇ……その萬玉さんもまた亡くなっちゃうんですよ……。
鈴木勉さん、ウチの奥さん、萬玉さん。三人亡くなってる。だから、游明朝体には三人の生命が宿ってるっていうね。……なにそれ(笑)」
「萬玉さんが亡くなったのは、俺、全然知らなくて。
これも平野さんから電話がかかってきて、「お前、萬玉が亡くなったの知ってるか?」って言われて、「いや、知りません」って。だいぶ悪かったって話で。
萬玉さんと初めて会ったとき、(萬玉さんは)結婚されてなかったんだけど、実は病気を知りつつ結婚した人がいるっていう話を聞いて、その方が講談社にいるって聞いて。
講談社には知ってる人がいるな、と思って電話したら、なんと萬玉さんの奥さんは、電話した人の隣にいたっていう。
それで電話代わってもらって、「萬玉さんが亡くなったって聞いて、お花とかお線香とかあげたいんですけど」って言ったら、「ウチは無宗教だから、そういうことはしてません」って。「せめて花だけでも』って言ったら、「いや、けっこうです」って言われて。冷たぁいって思ったんだけど(笑)。
「実は、「鈴木勉の本」というのを萬玉さんに随分前にお渡しして、それが縁で」という話をしたら、「あぁ、あの本ね」って。「あの本はね、いつも萬玉の机の上にありましたよ」って言われて、俺、泣いちゃった。ホントに。
その人とは、俺、会うんですけど、いい人でね」
「ホントにね……もう……まぁまぁまぁって感じ……」
「なんかね、書体がいいとか悪いとかよりも、この書体は、人とのつながりというか、そういうことが俺の中でものすごく強くて。なんかこう……大事な書体なんですよ」
こちらは、游明朝体の使用例。
こちらは、「藤沢周平を組む書体」と題して鳥海さんが寄稿されたもの。……なのですが、どこに載ってたのかメモしてませんでした。すみません。
●普通のゴシック
まず、游ゴシック体のコンセプトが紹介されました。
【キーワード】
- 游明朝体と混植したときに違和感のないように
- 長文でも読みやすいゴシック
- 基本は縦組み
- やさしいゴシック
- ふつうのゴシック
【デザインコンセプト】
- 見た目の大きさを游明朝体と合わせる/字間に風が通るように
- フトコロは漢字も仮名も中庸、欧文はフランクリンゴシックがベース
- 仮名のスタイルは仮名本来のスタイルを踏襲
- エレメントは筆の書き方に添うように抑揚をつける
- 角は基本的に丸める
ウェイトが7つあることを紹介してから、
「人によっては、「なんでこんなにいっぱい作る必要があるんだ!」って。人っていうのは、小宮山さんですけど(笑)」
●こぶりなゴシック
「一番上は游明朝体です。そして、真ん中、一番下……さぁ、なんでしょう。間違い探し(笑)。
なんでしょう、これ。実はですね、上が「こぶりなゴシック」です」
「「こぶりなゴシック」って知ってます? 大日本スクリーンの書体です。
実は、こぶりなゴシックは游ゴシック体になるはずだったんです」
「游明朝体のゴシックを作ろうとして、俺、仮名だけデッサンしてたんですよね。それが、こぶりなって名前で出ていったんですけど。
デッサンしてるのを、凸版印刷の紺野さんって方が見てたんですよね。
あるとき紺野さんから電話がありまして、「鳥海さん、あのとき見せてもらったゴシックの仮名、あれ、使えない?」って言われて、「使うもなにも、まだ下書きしかしてないよ」っていう話だったんですけど」
「集英社に「スタイル」っていう雑誌があって、それがMOOKだったか季刊誌だったかが月刊誌になるからっていうようなことで、それをDTPでやりたいということで。
大久保さんっていうデザイナーに話を持っていったら、「DTPのゴシックはダメだ。既存の書体では絶対にやらない。写植でやりたい」。ところが、写植だとお金がかかるから、やっぱり出版社としてはDTPでやってほしい。
にっちもさっちもいかなくなったときに、俺がデッサンしてたゴシックの下書きを、紺野さんが思い出したわけですよ。
「デザイナーにそのゴシックの下書きを見せたいから、ちょっと持ってきてくれない?」。それで、持って行くんですよ。
そしたら、その大久保さんが大喜びで、「これならやる」ということで。「こんなカッコいい「か」、初めて見た」って言われて、「鳥海さん、それ、フォント化できる?」って」
「そこでねぇ、考えたんですよ、俺……。游ゴシックなくなっちゃうぅぅ……って。どうしようかなぁって……。でもねぇ、字游工房、苦しかったんです、そのとき(笑)。少しでもお金に換えようって(笑)。
それで、漢字はヒラギノをベースにしたものと組み合わせようってことになって」
「またねぇ、この名前の付け方がほんとに素晴らしかったんだけど。
みんなでいろいろ検討した結果、紺野さんのアイデアだったのかな、ちょっと小さめのゴシックということで、「こぶりな」という名前をつけて。「麗しのサブリナ」にも似てるね、ということで(笑)、いいんじゃないって。
そしたら、これがけっこう評判がよくて、「スタイル」も無事に刊行できたんです。ところがです……」
「そのおかげで、「スタイル」は凸版印刷が印刷するんですが、デザイナーの大久保さんは、別に凸版とだけ仕事をしてるわけじゃない。
たとえば講談社から、仮にですよ? 別の雑誌を作ってって言われたときに、それをDNP(大日本印刷)で印刷してもらうとかっていう事態だって、当然あるわけじゃないですか。
ただ、この「こぶりな」は凸版もお金を出してたんです。だから、凸版さんしか使えないんですよ。凸版で印刷されるものしか使えなかった。でも、大久保さんはいろんな仕事をしているので、こぶりなを使った何かを大日本印刷でも刷りたい、と。それで、ねじれちゃったんです。
いろいろとあって、あまりにもややこしくなっちゃって、凸版のトップが「こぶりなは売るな」とストップかけちゃって。それで今は、PASSPORTに入ってるだけで、凸版は販売をやめちゃったんです。
そういう経緯があるんですけど」
「まぁ、困ったのは俺で(笑)。
游ゴシック体、どうしようって思ってね」
●こぶりなゴシックと游ゴシックの比較
「これは、こぶりなと游ゴシック体を重ねたもので、同じようで実は違う、ということを見せたかったんだけど、(映像が)薄すぎちゃって全然わかんないね……(笑)。
黒いラインのほうが游ゴシック体です」
「俺としては、ちょっと大人にしたつもり。
なんでこうなったかっていうとですね」
上:游築五号かな/こぶりなゴシック 下:游明朝/游ゴシック |
「こぶりなゴシックを作るときにベースにした明朝体があって、游築五号仮名をベースに作ったのが、こぶりななんですよ。
で、游明朝体をベースにして作ったのが、游ゴシック体です。
でも、ベースにしたっていう言い方は……うーん、ベースにしたんですけど、ゴシックっていうのは……。
DNPの「ゴシック銀」って知ってます? MORISAWA PASSPORTにも入ってる、ゴシック金・銀っていうのがあって、そのうちの銀っていうのは、本当に明朝体をベースにして作ってるんですよ。ところが、そういう作り方をすると、ああいうゴシックにしかなんないんですよ。ああいうって……わかんないよねぇ……(場内笑)。
もっとねぇ、もっと普通のゴシックにしたいんですよ。あれだと普通のゴシックにならないんです。
それがいいとか悪いとかじゃなくてね。僕が思う「普通のゴシック」っていうのは、そうじゃなくて、結局、ベースにしたって言っても、「え? どこをベースにしたの?」っていう感じかもしれないです。
でも、ベースにしてるんです」
「こぶりなは、ちょっと女っぽいんですよ。游ゴシックの方は、少し大人のお兄ちゃんって感じ」
「一番の特長は、実は漢字なんですけど。
漢字がね、こう、角があったり丸があったりしてるんです。こういうところとか、みんな丸いんですよ。
ウチのエンジニアさんは、すごい嫌がりました、これ。「意味あんの?」みたいな」
「游明朝体と游ゴシックを重ねると、こんな感じ。
ゴシック体って、同じ級数で組むと、大きくなる傾向にあるんですよ、明朝体よりも。それを、なるべくそうならないようにっていうことで、作ってます」
「横にするとこんな感じでぇす」
「以上ですね」
というあたりで、「游明朝体」「游ゴシック体」の話は終わり。続いて、(株)キャップスに提供されたオリジナル仮名書体についての話になっていきます。
そちらについては、「後編」でお届けします。
次は1ヵ月もかからない……予定です。どうか気長にお待ちいただければと思います(ホントすみません)。